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2009年04月 の記事一覧

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最近読んだ本まとめ 2009.04.15

テーマ:建築デザイン - ジャンル:学問・文化・芸術

4月に入ってから読んだ建築関係の本(建築系の雑誌除く)をまとめてみる。

■読み物として
『連戦連敗』
『建築巡礼 アールトとフィンランド―北の風土と近代建築』
『商空間 ―人・店・街 にぎわいをデザインする』
『コンペに勝つ!』
『モダニズムの建築 ―庭園を巡る断章』
『空間演出 ―世界の建築・都市デザイン』
『デッサウのバウハウス建築』
『都市と建築のパブリックスペース ―ヘルツバルハーの建築講義録』
■資料として(拾い読みしたものとか図版とか)
『建築学大系 劇場・映画館』
『GA 04 THEATER』
『DA建築図集 複合市民施設1』
『多目的ホールの設計資料』
『建築の絵本 東京のまちづくり』

今読んでいる本
『球と迷宮 ―ピラネージからアヴァンギャルドへ』
『エスキスシリーズ 建築のアイディアをどうまとめていくか?―もうひとつのテーマは「都市への戦略」』

積んでいる本
『Space Design Series 劇場・コンサートホール』
『建築がまちを変える』
『音楽空間への誘い ―コンサートホールの楽しみ』


キャンパスが変わって通学時間が4倍長くなった+電車がそんなに込んでないので、通学時間に読書をするようにしたら、読めること読めること。
1、2限は机に座って一方的に受けるだけの講義が多いので、授業に集中できないときとか手を動かすのに疲れたとき等を利用して本を読むようにした。
とりあえず、たくさん+じっくり本を読むようにしている。
斜に構えて本をあまり読まない時期もあったけど、今はとにかくいろんなことを吸収したいな。

本の選び方ですが、いまのところは
・課題/コンペの内容ど真ん中のもの
・ちょっと違ったアプローチのもの
・興味のある分野(要は趣味)のもの
の3系統だな、と。このリストを見てて思った。
不思議なもので、純粋な興味で手に取った本から、課題に関連する思わぬヒントを得られることもある。
アアルトとかね。完全に趣味で読んだのに。

今は都市に関わる問題に興味のウェイトが偏っていて、たまたま課題もそっち寄りのアプローチを求められているので都市だとか公共空間だとかにまつわる本が多いですな。

このリストの中で一番印象に残った・・・というか良かったのはダントツで『都市と建築のパブリックスペース』です。
学ぶべきことが多過ぎて、読みながらとったメモの量が半端ないw
これが講義録っていうんだから驚きだ。
こんな講義、生で聴けたらどんなに良いか。


そんな感じで。
本読んでばかりなようで全然そんなことはなく。
むしろスケッチしてる時間が多いかな。ネットする時間が減った気がする。
なんだかんだ自分自身で考えて手を動かすのが大事だな、とか
そんな偉そうなことを言えた分際じゃないのはわかってるけど、やっぱ手を動かすのは大事ですな


あ、それで建築読書メモのカテゴリですが
見ての通り全く追いついてませんw
が、メモはしっかり取ってるので、ぼちぼち感想文を上げていければと思っています。

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『連戦連敗』安藤忠雄 2009.04.12

テーマ:建築デザイン - ジャンル:学問・文化・芸術

連戦連敗連戦連敗
(2001/09/03)
安藤 忠雄

商品詳細を見る


■前に進むための失敗
「デザインというものは一つ一つの意思決定の積み重ね」
デザインをする過程で人はたくさんの岐路に立たされるけれど、その一つ一つに対して一つ一つ答えを出して行きながら進まなくてはならない。
そのとき頼りになるのは、最終的には自分自身の経験のみなんだろう。
そしてその経験というのは、ほんの少しの成功と、数えきれないほどの失敗、その積み重ねに他ならない。
結果は残らなくても、その過程で考えたことや描いたイメージは残る。
残ったアイデアやイメージは積み重なって、かけがえのない経験になる。
まさに前に進むための失敗。
個性というのはそういう失敗の積み重ねによって形成されていくものなのかな、と思ったり。

■残すということ
古いものと新しいものの共存についての考え方が印象に残った。
新旧の調和ではなくあえて衝突の状態を作り出すことでその場所の可能性を引き出すというやり方。
ある意味攻撃的とも言える過去への関わり方。いや、積極的、か。
もはや「守る」という表現すら不適切な気がする。
放っておけば失われてしまう過去の遺産を守ることは当然大事、でも守るだけじゃ足りないのかもしれない。
過去に対して受動的であるうちは、あたかも過去の遺物を博物館で遠くから眺めているような、そんな意識しか芽生えない。
守ることはできても、それは過去を観賞用の剥製にしているようなもので、真の意味で未来に「残す」ことにはつながらないのかな、とか。
「過去を現代に生かしてこそ初めて残すという行為が意味をもってくる」
剥製のようにいたずらに残すのではなく、生かす。
残すことは、生かすこと。
そして受動的にせよ積極的にせよ、過去と向き合うには筆者の言う「記憶(歴史)への最大限の敬意」が必要なのだ、と。


+ + +


「建築読書メモ」というカテゴリを新設しました。
読んで思ったこと、学んだことなどを好き放題書き散らしていこうと思います。
要は「走り書き以上、書評未満」のメモってことで。

あと今更ですが右サイドバーにブクログを導入しました。
そっちは淡々と読んだ本を登録しています。見た目が気に入っただけってのは内緒(おーい
星の付け方は適当なのであしからず。
本を選ぶとき、特に買うときは好きそうな本だなーって吟味してから本を選ぶので基本的に星は多めです。

啓蒙主義モドキ 2009.04.10

テーマ:建築デザイン - ジャンル:学問・文化・芸術

今日は課題のエスキスがあったんですが、本当に勉強になったのでここに書き留めておこうと思います。
課題は小劇場の設計。
ここ3日間で出来る限り多くの文献にあたってぐちゃぐちゃとスタディしていて、
まあ3日間にしてはいろいろ考えられたかな、というくらいは考えた。
それで、形とかはまるで考えていないんだけど、ある程度納得の行くくらいまでは考えがまとまって、エスキスに挑んだ。


ここに全部書いてもあれなので省略しますが、
・劇が生まれるプロセスを建築化(この表現が正しいかどうかはおいといて)できないかということ
・小劇場がまちの一部として周辺コミュニティに対して有機的に機能できないか
この2つをやりたいな、という考えがこの3日間で固まってきていて、
とりあえずの案として劇場のレベルを地上の目線からずらしたところにつくる・・・要は劇場を観念的に宙に浮かせて、劇が劇のできるプロセスに沿って空からゆっくりと日常のレベルまで降りてくる・・・みたいなことをぼんやりと考えています、みたいなことを言いました。
しかしこれに対する先生の意見に衝撃を受けたんです。それこそ自分の根本にあったものがひっくり返されるような。
案を否定されたわけじゃないし、エスキスを通していろんな可能性も生まれてきたので、すごく実り多かったのだけど
自分は「文化的なもの」は、別に特別な存在ではなく、日常の中から生まれるもの、言うならば生活の欠片みたいなものなんだけど
日常とは違うレベルから少しずつ日常へと近付いてくるもの(うまく言えなくてもどかしい)
それが例えば劇という形で日常のレベルまで降りてくる、そういう「出会い」というイメージがあったんですね。
このイメージは自分が住んでいる街の影響をだいぶ受けていると思います。
小劇場などサブカルチャーの発信地なんですけど、特別な場所というわけではなくどちらかといえばそういった文化に気軽に触れることのできる場所だと思うんです、自分の場所は。
むしろ、その街に行くことでそういう文化を身近に感じることができる=だからその街に行く という風に、人を引き寄せる力があるんですよ。
客寄せパンダ的な意味ではなく、人が自然と引き寄せられてきているような、そんな気がします。

話はそれましたが
自分は「日常」と「文化的なもの」との出会いがすごく重要だと考えていて、
自分が設計する小劇場もただの箱ではなくそういった出会いを提供する場であってほしいという思うんです。
たとえば劇が終わったあとの役者さんとのやりとりとか、劇には興味なかったけど今日は立ち寄ってみようかな、外から覗いてみようかな、とかそういうのも含めて、小劇場は何かしら「出会い」の場であってほしいな、と考えていたんですよ。


で、出たのが前述のような、劇が空からゆっくりと降りてくるイメージ なんですけど
先生に「その啓蒙主義的な考えは気に食わない部分がある」と言われたんです。
言われて初めて気付いた。
あんなに「確かに・・・」って心から思ったのは初めてかもしれない。
先に述べたように、自分は文化は生活ありき、というかその地域の暮らしから染み出てくるもの、と考えているにも関わらず
結局のところ文化を日常とは違う、ある意味神聖なものという風に捉えてしまっていたようです。
これじゃあ、2つの軸の一つである「小劇場がまちの一部として周辺コミュニティに対して有機的に機能できないか」ということを達成できるはずがない、と。
この文章じゃうまく伝わらなくて当然かと思うけれど、本当に自分で自分にびっくりした。というかがっかりした。
考えとイメージが乖離している!!


なんというか、無意識のうちに自分の中に巣食っていた陳腐な啓蒙主義モドキとも言うべき考えに気が付きました。
こういう先入観って直接指摘されないと気付かないものだよね。
前学期も度々思ったことだけど、やっぱり人と話さないとだめだ。
どんなに視野を広く保っているつもりでも、どこか頭でっかちになってしまう。
第一、そうやって生まれたデザインが人のためになるはずがないよね、理論的にはどんなに人のためになりそうでも。
第三者の目は本当に大事。でないと近視みたいになっちゃう。
気をつけよう。本当に勉強になった。


次回のエスキスは来週。
先生の話を伺ったあとは、一番尊敬している先輩に話を聞いていただいたりもして、次のステップが見えてきた。
エスキスでは自分のイメージの偏りにショックを受けたことはあったけど、案自体は好感触だったので、イメージの偏りに気をつけながら
・劇が生まれるプロセスを建築化(この表現が正しいかどうかはおいといて)できないかということ
・小劇場がまちの一部として周辺コミュニティに対して有機的に機能できないか
この2つをデザインに繋げていければ、と。
俄然やる気が出てきました。
今ぼんやりと考えているのは、昨日まで考えていたような
「劇が街へ自然に浸透していく」
というイメージではなく、
「街から劇場へ、そしてまた街へフィードバック」
という循環的なイメージ。
そもそも前述のように「文化的なもの」に対して、別に特別な存在ではなく、日常の中から生まれるもの、言うならば生活の欠片みたいなもの という風な考えをもっているので、
難しいことを考えずにそれをそのまま形にできないか、と考えています。
劇場が街に一方的に働きかけるんじゃなくて、劇場もまた街の働きかけによって変わっていくんだからね、自分の街みたいに。
とりあえずしばらくは劇場と街の、アプローチ部分というか結びつき方というか、そういうことについて考えようと思う。
「出会い」が生まれる場所にできるといいな。
よし、頑張ろう


都市から離れて都市に気付く 2009.04.05


誕生日ということで、相方とお台場へ出かけてきた。
自分は節約家・・・というより、お金を使うこと(自分でも他人でも)に対して必要以上に慎重な人間なので、滅多に豪華な食事とかはしないし遠慮してしまうのだけれど、今日は珍しくお言葉に甘えてきた。
東京湾ディナークルージング。
春休みは横浜へ行ったり鎌倉へ行ったり、何かと海を見る機会は多かったのだけど、船に乗るのはかなり久しぶりのこと。
食事はおいしいし、船は居心地が良いし、何より夜景が素晴らしかった。
そんな夜景について思うところがあったので少々書き散らしてみます。


お台場を出た船は東京湾へと出て、ディズニーリゾートを望みながら湾を進み、またお台場へと戻る。
最初の方の夜景はすごくにぎやかで綺麗だった。
お台場地域のネオンの光はきらびやかだし、港の光もまた良い味を出していて。
下から眺めるベイブリッジは大迫力だった。
東京タワーもライトアップされていて、ものすごい眺め。
人工の光ではあるけれど、やっぱり夜景というものは綺麗だね。海から見るとまた違って見えるし。


東京湾へ出てしまうと、あれだけキラキラ輝いていた港や街の明かりもはるか向こうへ遠ざかってしまい、
そんな遥か彼方のキラキラを除けばあとは真っ黒な空と海。そんな風景でした。
嫌と言うほど人が密集している街が、あんなに遠く。
地上には人間がものすごい数はびこっていると言えども、海はあまりにも広い。
都会に生き、日々の生活が都市の中で完結する自分にとって、広いと思っていた都会がはるか遠くへと遠ざかっていくのはすごく不気味、というか怖かった。
これが昼で、空と海が青かったならまた話は別だと思うのだけれど。
真っ暗な空と真っ暗な海に街の明かりが溶けていくのは、ものすごく怖かったよ。
怖いと同時に新鮮だったけどね。すごく綺麗でもあったし。
広い海を前にして自分の存在のちっぽけさを実感することはよくあるけど、自分が住んでいる場所すらも実はものすごく小さなものなんだと実感したのは久しぶりだったので、なんとも言えない気分になったわけです。
人間というものはこうもちっぽけなものかと。ちっぽけなところに蟻のように密集して住んで、ねえ。


こんな気持ちになったことが他にもあったな、と今書いていて気がついた。
飛行機が離陸して、街が遥か下方に遠ざかっていくときとかに、似たようなことを考えていた気がする。
さっきまで普通に生活していた地上が、そこから離れることによってなんだかジオラマみたいな現実感のないものに見えてくるんです。
そこには確かにたくさんの人が生きているんだけど、離れてしまうとなんだか全てがおもちゃみたいに見えて、そこに数えきれないほどの人が蠢いているだなんて想像もできなくなる。
たかが数百メートル離れただけなのに。


飛行機のケースと今日の船のケースで共通しているのは、普段住んでいる都市から離れていること。
普段何も考えずに暮らしている都市を、外側から見たときに感じる不気味さというか無機質さというかなんというか。
中にいるときは気付かないけど、外から眺めてみると気付くのかな。
都市の中で始まり都市の中で終わる、そんな都市に埋没した日常生活の中ではなかなか意識できないことでもあるね。


帰りは地下鉄を利用したんだが、あるルートで帰るとものすごく早く帰宅できることが判明した。
お台場には何度も行ったことがあるけれど、そのルートの存在に気付いたのは今日が初めて。
「え?こんなところに繋がってるの?」
地下鉄の張り巡らされ具合に改めて驚いた。
船での話にも通じるのだけれど、人間はこうも狭苦しいところに、地上どころか地下にまで交通網を張り巡らせて・・・

そんなことを考えながら電車に揺られていたら、ふと、「地下って海みたいだな」って思った。
地下鉄は地下を走っているから、窓はあるけれど走行中は外は真っ暗だ。
巨大な土の塊の中を進む船。
自分が今どれくらいの深さのところにいるのか、地上からどれほど離れたところにいるのか、わからないまま電車は進む。
そりゃあ、どこの街の下にいるかとかはある程度見当はつくだろうけど、それはあくまで路線図上/地図上の位置であって。
都市の地下を立体的に(?)把握したときの位置とか、ねえ。わかるわけないじゃん、と。
今東京の地盤のどの辺を走っているんだろう、とか、考え始めると少し不気味になりませんか。
そんな感じで、今日船上で感じたあの暗い、不安な気持ちを再び感じたわけです。
毎日乗ってても何も思わなかったのにね。不思議だ。


明後日からはまた毎朝毎晩地下鉄を乗り継ぐ生活が始まります。
明後日にはきっと今日感じたことも忘れて何の違和感もなく地下鉄に揺られているんだろうな、と。
でもたまには巨大な土の塊の中を、自分がどこをどう通っているかも知らずにただ揺られている自分に気付くのもいいかな、とか。
それこそ船や飛行機とかに乗っているときと同じように、都市から離れたところから自分を/都市を見つめ直してみるのも良いかな、と。
そんなことを思いました。


誕生日目前 2009.04.02


あと数分で年を取ります。光陰矢の如しだのう。
新年度とほぼ同時に誕生日を迎えるというのは、なかなか気が引き締まるものです。
今年もがんばるぜよ。もう一年の4分の1は過ぎてしまったけれど。ずーん


さて、自分の学科は誕生日と同時に新学期が始まります。
ここ数年誕生日に新入生合宿があったり、新入生を迎えるオリエンテーションがあったり(迎える側)、何かとわくわくする誕生日が続いていたのですが、
正直こんなに嬉しくない・・・というか複雑な気分の誕生日は初めてです。苦笑
まあ、久しぶりに学科の友達に会えるのはめちゃめちゃ嬉しいけどね。
なんだかんだ大学が好きな自分。うん。



そんなこんなで
今年度も気合入れて頑張ります。
春休みは忙しいながらもかなり充実していて、いろんなところへ行ったりとかもしたので、
久々に旅行記でも書こうかね。
とか思いつつ。今日はこの辺で。



追記:新年度はもっと日記書くようにしようと思います!


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